推しコンテンツへの妄言集積所

正気に戻ったら負け

『ウーユリーフの処方箋』は、虚構への賛歌だった

 先日、リリース直後からプレイしていた謎解き脱出ゲーム『ウーユリーフの処方箋』をクリアしました。可愛らしいPVと共に「新作は乙女ゲーです♡」と発表しておきながら、蓋を開けてみたらヒロイン(クリーチャー)から逃げる脱出ゲームだったアレです。どんな詐欺だよ。

 初っ端からのホラー、個性的なキャラクター、メタにメタを重ねたセリフ、伏線や暗喩をチラ見せしていくシナリオ、感情移入し切ったところで奈落に落とす展開。本当に容赦がなかった。始終情緒をメタメタにされたし気が付いたら課金していた。こらえ性のないオタクなので、金に物を言わせて爆速で駆け抜けた一ヶ月でした。ついでに息を吸うように特別ストーリーも買ってしまった。後悔はないです、ありがとうSEEC。

 Twitterのネタバレタグを見ていると、このゲームのラストを喜んでいる人も悲しんでいる人もいました。当然だと思います。あのストーリーは確実に人を選ぶし、優しいだけの物語じゃない。でも、個人的に私は最高に綺麗なエンディングだと感じました。いっそ清々しくすらある。特別ストーリーまで読み終えた今、滅茶苦茶怖いジェットコースターに乗って帰ってきたようなすっきりした心地に浸っています。
 賢者タイムが終わったので、頭の中の整理も兼ねて所感をまとめます。本編フルコンプ+特別ストーリー+特別ストーリー暗号解読済の人間が書いているので、まだ全て見ていない人はネタバレ注意。

合わせ鏡の世界

 マツリが大学に通う「現実世界」とウーユリーフの「ゲームの中の世界」、あとヒロインがいた(キリオが行ったことのある)「現実世界」。このゲーム、これでもかと序盤から世界の境界線を強調されるんですよね。そしてトレーラーハウスに集まった彼らは全員「ゲームの世界」から抜け出したいと思っている。
 『ウーユリーフの処方箋』は、ゲームの世界に引きこもり、ゲームの世界を現実だと思い込み始めた円果を連れ出すことが目的。「脱出」が前提として設定されてたのは、「ゲームの世界から現実に帰る」という目的をマツリ(=円果)に刷り込むためだったんだと思います。円果のトラウマ治療が目的にしては穏便でない内容だったのも、危険な存在から逃げることで生存本能や「帰りたい」という欲求に訴えかけるためだったのかもしれない。

 本編中盤まで読んで、マツリの言う「現実世界」が虚構でラスト・レジェンドこそが現実だということや、マツリ含めイケメンたちは全員ラスト・レジェンドの人物を基にしたNPC(またはアバター)だということは検討が付いてました(名前の逆再生から)。だから7章ではそれほど衝撃を受けずに済んでいたというのにあの特別ストーリーですよ。最後の最後に「私たちがプレイしているゲームはラスト・レジェンドの彼らが企画したアプリで、映画の予告ですよ」と来たもんだ。心底「やられた」と思った。

 このゲーム、最後までプレイヤーをただの傍観者でいさせてくれないんですよね。簡単に世界の境界線を飛び越えて、画面の向こうの私たちすらゲームの一部にしてしまう。読めば読むほど現実と虚構の境界線が曖昧になる。箱庭を眺めているつもりでいたら合わせ鏡の中にいた、みたいな気分でした。悔しい。

あなたの癒しは僕らの痛み

 作中で「消費されるもの」「消費する人」として相対関係になっていたのが「キャラクターとプレイヤー」、「芸能人とファン」です。最近流行りのアプリゲーに言及した時は評価が的確すぎて笑ってしまった。自虐の切れ味がすごいぞSEECさん。
 確かに乙女ゲーや育成ゲー(いわゆるガチャゲー)のキャラクターも芸能人も、大衆に選ばれたり選ばれなかったり、愛でられたり捨てられたりしながら消費されるものです。どれほどプレイヤーやファンが博愛主義でも、又は特定のキャラクターや芸能人を深く愛していても、彼らが一つのコンテンツであることに変わりはないんですよね。彼らの姿や行動は「それを見て楽しむ人のために用意されたもの」だから。二次元の存在だろうが生身の人間だろうが同じです。誰かに夢や希望や癒しを提供するための虚構なんです。

 私はキャラクターはキャラクターとして愛するオタクだし、芸能人のテレビの姿と素の振る舞いのギャップに失望したこともありません。だってゲームや漫画は作り手がいなければ存在しない。アイドルはファンを喜ばせるために派手なパフォーマンスをする。虚構は虚構として受け入れているつもりでした。
 でも、キリオが設定をなぞっているだけだと知った時に彼に同情してしまった。ラスト・レジェンドで三筒が細工した出来レースに嫌悪感を抱いた。どちらも受け手に向けて提供されたコンテンツなのに、です。虚構は虚構と割り切っておきながら、わかりやすく演出された虚構に違和感を覚える矛盾を突き付けられてしまった。横っ面を張られたような衝撃でした。

 このゲームは「私たちはコンテンツを消費する側の人間なんだぞ」と突き付けてきます。消費されることに怯えるマツリや、選ばれようと足掻くキリオに感情移入して同情する私たちは、彼らのその苦しみを、その物語を娯楽として消費している。だから「みんなグル」なんだと。よりによって、大衆にお手軽に消費されがちなアプリゲームという媒体でそれを言うんですよ。これ以上の皮肉はないです。本当によく通ったなこのシナリオ………。

命の理

 円果を現実世界に連れ戻すため、キリオ含めマツリ以外のトレーラーハウス組はみんなセリフや行動が設定されていました。裏では複数人がアドリブの台詞を喋っています。
 特別ストーリーのこの部分にショックを受けている人をちらほら見かけました。「結局は円果を救うために用意されたシナリオだったんじゃん」とか「死ぬことや仲間を殺すことが最初から決められていたのがしんどい」とか「自由意志がない張りぼてなんじゃないか」などなど。わ、わかる~~~~~!!!!本編序盤でマツリたちに感情移入しちゃうと切ないんだよな。でも彼らがラスト・レジェンド組のコピーで、円果のため設定のままに行動していたとして、それは彼らの存在の意味を失うようなことなんでしょうか。

 本編中でも散々言及されていました。「キリオは所詮NPCですよ」とノゾミが言っていたように、彼らは最初からプログラムされて動いている(今思うと特大ブーメランだな………)。でもンアウフは言います。「ロボットにも心があるよ。みんな同じだよ。みんな生きてるよ」と。結局はこれが答えなんじゃないかと思います。

 一度でも創作をしたことがある人はわかると思うんですが、自分でキャラクターを作り出す時設定を考えますよね。まず容姿や性格、言動を決めます。夢や信念も持っているかもしれない。キャラクターは、この時創作者が与えた「個性」に従って行動します。
 よく創作をする人から聞いたことありませんか。自分が作ったキャラクターのストーリーを考えている時、作者の都合を無視してそのキャラクターが頭の中で喋り出すとかそういう話。初めは創作者が創り出した存在だとしても、そのキャラクターは創作者の頭の中で自立して生きているんです。
 二次創作も同じです。二次創作をする時、自分が触れたキャラクターの性格や言動を反映しますよね。人によって受け取る印象に差はあっても、ファンそれぞれの中にそのキャラクター像ができてるはず。このキャラクターはこういうことは言わないなとか、きっとこういう場面ではこうするだろうなとか。そのキャラクターの核のような部分が自分の中にあるはずです。

 虚構に与えられたブレない芯、心こそが「命」なんじゃないでしょうか。もし虚構がただの嘘に成り下がることがあるとしたら、それはきっとキャラクターが自身の信念と矛盾する行動をとった時(いわゆる公式の設定矛盾)や、女性向けにプロデュースされていたアイドルが女性を軽視した発言をする時なんかでしょう。虚構の芯を折ってしまえば、それはただの抜け殻と同じだから。

 特別ストーリーの中でも更紗と大木が言い争うシーンがありました。男を抱っこするのをキリオが「気持ち悪い!」と言うのがポリコレ的にアウトだと更紗は言います。確かに正しい言い分ですが、大木はキリオの言動を変えなかった。そこを変えたらキリオの性志向や考え方が変わってしまうからです。キリオの考え方をポリコレを理由に曲げることを許さなかった。(ちゃんとフォローは入れましたが)
 これは創り手がキャラクターの「個性」を尊重した結果です。キリオが円果救出のために創り出された虚構だとしても、創り手はキャラクターの意思を曲げずにキリオらしく生きさせようとした。エンディングが決まっていたとしても、それまでにキリオが抱いた想いや葛藤はキリオだけのものだった。

 カナタはヒロインに食われる直前、心の底から恐怖していました。ずっと生き残るために必死だったから。マツリは腕を引きちぎった瞬間の激痛を味わった。血が出なくても、切断した断面が綺麗でも、傷つく瞬間の痛みは本物だった。
 きっとこれがキャラクターの「命の理」なんだと思います。キリオたちはあの世界で感じるままに生きていた。ゲームの中で彼らがデッドエンドを迎えたとしても、それだけで彼らの物語にはちゃんと意味がありました。

虚構の波に乗れ

 事の発端となったラスト・レジェンドは、観客に向けて作られた虚構でした。その虚構に傷つけられた友喜は俳優人生と足を失い、友喜の事故でトラウマを抱えた円果は現実世界から逃げ出した。特別ストーリーでは、ゲームの世界で円果を治療し現実世界へ連れ戻す様を「ドキュメンタリー」として撮影しています。ここ本当にエグいんですよね。特別ストーリー途中までしんどかったな………。

 和歌の言う通り、ヒールユー・プロジェクトは友喜と円果の傷に踏み込むものです。あれをドキュメンタリーにするということは、二人の心を土足で踏み荒らすのと同義です。でもこのプロジェクトは「商品」になる。大衆がそれを求めているから。
 心に深い傷を抱えた人や重い障害を抱えた人が頑張るドキュメンタリー、たくさんありますよね?ここで「お前ら全員消費者でグルだからな」と言われた我々をぶっ刺してくるわけです。本当に容赦がない。
 大衆は、虚構を娯楽として消費しながらもその裏にある「本当」を見たがります。芸能人のドロドロしたゴシップ、すぐ話題になりますよね。根も葉もない噂でも「もしかしたら本当かもしれない」と大衆が思えばすぐに広がってしまう。虚構があるからこそ、その裏にある真実の商品価値が高まるのかもしれません。三筒はそれがわかっていたからヒールユー・プロジェクトを商品にしようとした。

 でも、その企画はよりによってゲームから生還した円果に一刀両断されます。倫理や感情の問題ではなく「ドキュメンタリーとしてのクオリティが低いから」。私ここで滅茶苦茶興奮してしまったんですよね。消費されることを恐れていた円果は、消費される人間として生きると腹を決めた途端にためらいなく自分を売れるんです。自己犠牲や自信のなさからではなく、コンテンツを提供するプロとして。ただでは売らせませんよ、僕を売るならちゃんとしたクオリティのものじゃなきゃ嫌ですよと。ここまで強かな子になるとは思わずおったまげました。最高。心の中でペンラ振りまくった。

 円果は一人称視点ばかりでクオリティが低いドキュメンタリーではなく、最初から撮り直したものを商品にすることを提案します。真実ではなく、真実を混ぜた虚構を売り出そうと言うんです。この提案、よくよく考えるとキリオたちゲームの中のキャラクターの救済でもあります。
 『ウーユリーフの処方箋』のキャラクターたちは、前述の通りキャラクターとしてちゃんと生きていました。とはいえあくまでも円果救出のために用意されたキャラクターなので、円果がエンディングに辿り着くためにプロジェクトの参加者がアドリブを加えていたりもします。半分アバターみたいなものです。キャラクター一人一人にクローズアップする機会もなく、その魅力を掘り下げることができなかった。三筒たちが大衆に向けて発信したいのは「ゲームの世界から現実に帰ってくる円果と、そのために尽力する周りの人間」ですから、当たり前のことではあります。
 大衆が楽しむためのゲームとして作るなら、世界観もキャラクターもストーリーもじっくり構成し直す必要がある。ここに来てキリオたちは「円果を救うために用意されたキャラクター」から「『ウーユリーフの処方箋』を彩るキャラクター」に昇華されるんです。現実の人物を基にした完全な虚構として受肉する。
 『ウーユリーフの処方箋』の結末は変わらないでしょうし、円果がトラウマを克服することが映画のエンディングなのでしょう。それでも、彼らは彼らの言葉で話し、彼らの人生を歩んでいく。キャラクターとしての彼らはここで救われたんじゃないかと思います。

 ちょっと脱線しましたが、「ラスト・レジェンドに出たタレントの物語」を、ゲーム『ウーユリーフの処方箋』の世界を交えて一つのコンテンツとして売り出すこと。それによって友喜と円果が再び歩き出すこと。これは虚構への最大の肯定だと思います。
 キャラクターやタレントは、虚構を消費するプレイヤーやファンがいなければ成立しません。プレイヤーやファンもまた、キャラクターやタレントがいなければ消費者ではなくなる。虚構を通して繋がっている関係です。キャラクターやタレントがコンテンツを発信し、それを大衆が消費して話題を作り出す。双方がいて虚構の波が起こる。私たちがプレイした『ウーユリーフの処方箋』の結末は、その波を楽しんでいいんだというメッセージなんじゃないかと思います。もちろん虚構の消費には、綺麗なものも汚いものも付き纏います。虚構の波に飲まれて潰される人もいるかもしれない。それでも、全部ひっくるめて受け入れていいんだという消費者へのメッセージです。

 巨大な虚構の波を起こそうとしている友喜と円果は、これから壮絶な苦労を味わうかもしれません。何しろ出来レースを包み隠さず公開するんです。きっと同情や批判やその他諸々あらゆる言葉を投げつけられることでしょう。それでも彼らは、自分を必要としてくれるファンがいる限り、自分の足で歩いていくんだと思います。

最後に

 このゲーム、プレイしててしんど~~~~~い!!!って思うことの方が多かったんですが滅茶苦茶楽しかったです。まさか消費者としての自覚を問われるとは思ってませんでしたが。
 このゲームのストーリーを楽しかったと思う人も、ストーリーに納得いかない人もどちらもいるはずです。それこそが製作陣が狙っていたことなんでしょう。いい感情だろうが悪い感情だろうが、この物語に、あのキャラクターたちに何か感じてほしかったんだと思います。
 キリオたちに感情移入してしまうほど彼らが好きだった人の気持ちも、「ゲームの中で死んでいった彼らは報われない」と思う人の気持ちもきっと必要なんです。彼らに感情を揺さぶられたという事実こそが、コンテンツとして発信されたキャラクターの存在意義だから。
 キャラクターそれぞれへの感想も書きたいんですが、クッソ長い文章になってしまったので次回に持ち越します。

 このゲームを素敵な虚構として愛してます。ありがとうSEEC、ありがとうベノマ玲さん。